「命」に向き合う

人口呼吸器をつけられた状態の母は、眠らされているので
まったく意識はありません。
たくさんの管につながれ、変わり果てた姿になっていました。
モニターが付き、常に命の危機を管理されている状態。

母を知る人は、まさかこんな姿になろうとは想像していなかったことと思います。
とにかく元気でパワフルで、いつも笑顔を振りまき、
ご近所や商店街を行き来しています。
母の実年齢を知る人は、その若さと元気さをうらやむほどでした。
自分よりも年齢の若い高齢者に、「おばあちゃん、大丈夫? 荷物持ってあげるよ」
そんなことを普通に言ってしまうくらい、本人も高齢者の意識が低かったのです。
でも、病院はそんなことは知る由もありません。

カルテを見れば、一般の「86歳」
立派な高齢者です。
そして、この年齢であれば想定内の状態。
厳しく言えば、必要以上にやることがないということです。
担当医師から説明時に
高齢者なので、何が起こるかわからない状況であること。
そして急変したときに延命治療を望むのかどうか尋ねられたのです。

「高齢者の場合、心臓マッサージをすれば、かんたんにろっ骨が折れるでしょう」
「電気ショックは、体にやけどの跡が残ります」
「そんなことをやる意味がありますか??」

担当医師の言葉や穏やかですが、同時に厳しい現状を知らされることになりました。
その言葉を聞いている時に
不思議なもので、パニックにはならず冷静に聞き入れている自分もいました。
おそらく、命のことをずっと考えて学んできたこともあるでしょう。
母も宗教観念を持っていますから、
母の思いもわかります。
「命を無駄に操作する必要はない」
おそらく私も母も同じですから
覚悟はできています。

でも・・・・

このまま、本当に最期のお別れになるのか? 
母はこれではあまりにも無念だし、私もちゃんとお別れしたいと。
ここでお別れとなるのは、
ちょっと違う気がしたのです。なぜかわかりません。
この母は普通の高齢者とはちょっと違うから、
「普通」というくくりで見てはいけない。
この人の「命」を見ていこうと思えたのです。

その思いからでしょうか・・・・
医師からそんな言葉を入れれたら皆さん泣くでしょう?
私は泣けませんでした。
自分でもわからないのですが、
そのときに「悲しい」という思いよりも
私たち親子に与えられた「試練」だと思ったからでしょうか。
一息深い呼吸とともに、乗り越える覚悟をしたのです。

「先生、延命は望みません。でも立ち直る気がするので
どうか慎重に診てください。生命力のある人なのでもう少し信じたいと思います」

とお話しすると、
先生も「わかりました。できる限りのことはしていきます」と。

幸いにも担当の先生が、
とても人情味にある先生で、母のこと、私のことを気遣い
医師としてではなく、自分の家族だったらというお考えも話してくださり
医師という隔たりを付けずにお話しされることも
私が「信じる」という思いが強くなれたのかもしれません。

救急車で運ばれた病院は、病床の少ない小さな病院。
地域医療にも携わり、高齢者を受け入れてくれている病院だったのです。
第二次救急医療機関という位置づけで
男性の看護師さんも多く、常に誰かが母を見ている状況にありました。

この病院は、総合医療は行っているものの、
専門分野により、常勤されているわけではないということが
私にとってはひとつ気になることでした。
でも、これがかえって母には良い状況を作り出したのです。
ここでも母の生命力を感じることでした。







「命」に直面する 

久しぶりの更新です。

4月に母が倒れ、病院と行き来する生活が始まり、
しばらく、そういう気分になれませんでした。
冷静ではあったものの、何でもないことが出来なくなり、

心がざわついていました。

そんな母もようやく
「奇跡の復活」と言われるほど回復し、

いろいろ目途もついてきたこと。
これから始まる介護生活への覚悟ができたこと
私なりの看取りの考えを改めるきっかけとなり
チャイルドケアの

「育む・見守り・看取る」の実践経験を

綴っていくことは私の役割でもあるので、

ブログを再開することにしました。
少しずつ、またいろいろ綴っていきたいと思います。

ということで
突然、4月の初めに母が倒れました。
その日の朝は、母はだるいと言って、
床に寝ころがってテレビを見ていました。

後姿をみて「大丈夫?」と声をかけると

「だいじょうぶ」と返事があったこともあり、
前日、良く動き回っていたようだったので

その疲れかと軽視していました。
夕刻になり、母の様子を見ると、
朝と同じように床に横になっていました。

台所を見ると、きれいな状態で
使った様子はなく、
そこで初めて「おかしい・・・・」と気づいたのです。
初めて、母のそばに寄り
「大丈夫?」と声をかけると
やはり
「だいじょうぶ」と。
明らかにおかしいので、
だるいならベッドで寝てないとと体を揺り動かすと
母は、全く動けず失禁もしていました。
朝からずっと倒れたままだったのです。

慌てて、救急車を呼び、
そこから入院。
その時点でいろいろ検査を受けて
そのときは心臓も脳も問題なく、「腎盂炎」というで入院。

ひどいものではないと安堵していたら、
すぐに肺炎を併発。毒が体にまわってしまったのです。
その後、呼吸不全となり、心不全となり
ついには人工呼吸器をつけねばならない状況になりました。
わずか2日かほどのことです。

数日前まで、元気に歩き回り、
近所のジムにも通うほど元気だった姿とは
似ても似つかぬ状態。
医師からは、延命をするかどうかの選択を
強いられるほどの状況になりました。

現実を受け入れることができず、
どこか遠いところで話をされているようになり
見るもの、聞こえるものに
すべてフィルターをかけられたような感じになりました。

それから、母の闘病生活が始まったのと同時に
私の中で「看取り」がすぐそばの存在となり、
机上の空論での学びとはまた違った経験が始まりました。

子どもとの会話

子どもとの会話で気を付けてほしいこと。

 

未就学から低学年くらいまでは、

とにかくまず、

子どもの話したいことを聞いてあげてください。

 

話したい<内容>を聞こうとせず、

まず子どもの口から発せられる

「話したい」という

<思い>を聞いてほしい。

 

それは内容なんかないことも多々あります。

オチもありません。

幼児期から幼さが抜けない低学年の子どもは、

何となくでしかまだ会話ができないのです。

そして会話というよりも、

成長段階で、母親の肌から離れて、手が離れて、

一人でできるようになった自立感とともに

何となく親子の距離を感じ、

ふと寂しさや不安のようなものが現れたときに

それを払しょくするかのような確認作業でもあるのです。

 

「ねぇ、ねぇ~ママァ~」

「あのさぁ~おかあさん」

 

そんな呼びかけに、ちゃんと向き合ってください。

 

「今忙しいの」

「何?早く言って!」

「言っていることわかんない」

「何、用事があるならはっきり言って」などと

 

少し大きくなって手をかけることが減った子どもに対して、

途端に子ども扱いではなく、

 

大人のペースで聞き、

大人のペースで対応している親をよくみかけます。

 

そうすると子どもは黙ってしまったり、

何も言いたくはなくなります。

いつの間にか顔色をうかがって話しかけるようになります。

 

この時期も親が子どもに耳を傾けることは大切です。

この時期にしっかり聞いてあげていることができれば

子どもは親への信頼感をしっかり確認できるので

安心して、あとは成長していくだけです。

 

そして必要なことはきちんと話すことが

家庭の中で当たり前のように

できるようになります。

 

もちろん対社会に対しても友達とのコミュニケーションが上手になります。

何より、人の話を聞いてあげることが自然にできるようなります。

傾聴のできる子どもは、皆から信頼されます。

 

そして、

「傾聴」で築いた信頼関係は思春期の時期の子どもとの関係に影響します。

思春期の子どもとの会話ができなくなっていることで

困っている親は、

実は困っているのは親のペースで話をしているから

「会話ができない」と思っているんですね。

子どものペースで話を聞いてあげていると、会話ができるのです。

 

親が言いたいことだけをいうだけの会話は

子どもは興味を示さないし、

どうせ聞いてもらえないということがわかっているから

会話をしたいとは思いません。

会話とは、何が言いたいかだけじゃなくて

何を聞いてもらいたいのか、何を聞いてあげるのか、

そこを大切にすることが大事です。

 

特に子どもとの会話は、「聞く」ことを大切にしてください。

子どもは、会話よりも自分のことを受け留めてもらえていないと、

親に媚びて無理にウケ狙いの話をしたり、

大げさに言ったり、嘘をついたり、

顔色をうかがいながら話を作るようになります。

そう、いわゆる「オチ」をいう会話を作るんです。

 

オチがないと聞いてもらえない、面白くないと注目してもらえない。

そんな風にしか会話ができなくなるのです。

思春期に入り、「面白話ができないから」と

話がしたくないという子どももいるんです。

大人が、親が、子どもとの会話をするときに、

もう少し上手になってくれたらきっと、

もう少し様々な問題が解決できるように思います。

 

「今日はお天気がいいね」

「そうだね」

たったそれだけのことだけれど、

互いの肌感覚を感じ

心地よさを共有できること。

こんな会話が、子どもを育てていくのだと思います。

1 コメント